年金制度?なにそれオおいしいの?という感想

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52982720V01C19A2EA1000/

政府の公的年金制度の改革案がまとまった。

記事によると75歳から受給した場合の月当たりの年金額がまたずいぶん増えるそうだ。まだ75歳の半分にも満たない自分にとってはここまでは正直どうでもいいと考えている。

現役爺さんたいが勿体ぶって「まだまだ働けるぞい!年金に頼らんぞい!」などと就労を継続して納税していただけるのは社会全体にとって非常に有意義であることに間違いはないが、損をしないとうだけで「増える」ことへの恩恵を受けられるかは極めて不透明と思うからだ。

人口構成の中で最大のボリュームゾーンになっているのが第一次ベビーブームに生まれた方々で現在70歳から72歳くらいの方々。この人たちの多くはすでにリタイアしているかと思う。この方々の子ども世代にあたる現40代半ば世代はまだ向こう20年は社会で活躍されることと思う。しかしながらその先は働き手は減少の一途であることが明確になっている。

我々現30代が75歳まで働いたところで、労働人口は現在より確実に少ないことが分かっている。

記事にもある通り、現在の高齢者の受給を抑え、頑張った方がたくさんもらえるようにした、という面ではよりよいのだが、団塊ジュニアたちが70歳を迎えるころ現役世代が悲鳴を上げることは目に見えているわけだ。その中で、こいつらの保証も絞ったれの筆頭になるのがその時リタイアを目前に控え余力で戦う60代、つまり自分たちである可能性は低くないかと考えている。

団塊ジュニアの年金受給が始まってきたころ、もう一度制度を見直す必要があるはず。自分が年金世代になるまでに現行制度が続くはずがない。と考えると「なにそれおいしいの?」となる。

話は変わるが、年金受給者になったとき、どうやって日々を過ごすのか、そのイメージが全く持てない。別に今はまだいいんじゃない、と思うのだが入院中、看護師さんに世話を焼いてもらっている老人患者を見てて、あれがハッピーなのかどうなのか、という疑問がわく。

世話を焼いてもらうと言えば聞こえがいいかもしれない。同室のおじいさんは毎日確実に怒られてた。おむつを勝手に脱いでベッドで小便してしまう日々が続いていたからだ。

勝手な想像だけど、爺さんにはおむつなんぞ要らん、トイレに行けるんじゃ、という無意識の抵抗ではないかと思った。というのも何を聞かれても「できるわい」と答えるからだ。できなくなってしまった自分を認められないだと思う。すごく悔しいと思う。

自分がそれに耐えられるか正直分からない。プライドはそれなりに高いほうなので当たり前のことが自分でできなくなった時にそれを受け入れられのか。

年金受給に際してもう一つ検討して欲しいのが、死ぬ年齢の自由選択権。このまま医療が発展すれば喫煙者で身内に生活習慣病で亡くなった人がたくさんいる自分も85歳くらいまでは何とか自力でやっていけるんじゃないかと思っている。そこから何か病気をして死ぬのが87歳と想定して人生設計をしたとき、もし仮に87歳でも全然死ねずに、病院で生かされ続けることになったらどうだろう。

一人息子はその時61歳。孫もいるかもしれないし、ひ孫もいるかも。ただ何もしてやることができずに「また今日も生きてしまった」なんてベッドで思うんだろうか。

だったら87歳に死ぬって設定して、何か痛みや苦しいの小さい死に方をさせて

もらいたい。年金受給の開始時に「じゃああと20年だけ年金もらおうかな」とか「あと10年でいいからたくさんほしい」とか、そんな仕組みがあってもいいのではと。

長生きはいいことだ、って当たり前のように言われているけど、それはあくまで健康的で自活できた上でのことで病院のベッドで生かされているだけの長生きが言い訳がない。早く死ぬことが必ずしも悪いわけでもないだろう。

終わりを設定してそれ通りに計画的に死んで、子孫にも準備をしてもらうなんてのもいいのではと思う。

どうせ年金少ないし。

それでも貰えるんやから現役世代に感謝しろじじい、って思われるし。

長生きしたくないんだよね。